非音楽家のピアノ 京都パララックス
堀禎一の遺作になってしまった映画『夏の娘たち』で初めてピアノ録音を使った。それは単に映画の予算が全くなかったから。
それ以降、ピアノは弾けないけれど、定期的に録音するようになった。
ピアノだけでなく、あらゆる楽器を弾くことができないので、猿はピアノが弾けるのかの実験に実質なってしまってる。
最新のは半年ぶりのピアノ新録。
『orphanage』
label:aap-piano
cat_no:aap12
『orphanage』(孤児院)
track 1 orphanage
track 2 ex orphan
track 3 orphan
ピアノソロの取り扱いは現在、
京都のパララックスのみ。
以下のURLはパララックスのピアノコーナー。
カーデュー、フェルドマン、ゴードン・マンマのピアノ盤が並んでます。
そのはじっこに自分の非音楽家のピアノシリーズが1番から12番まで。これは普通のレコ屋ではありえないこと。パララックスの気まぐれ。
パララックスの解説はざっくりしていて、自分のページは嫌がらせに近い感じもあるけれど、きがふれたおさるでも弾いてみるのだな…というニュアンスです。店長とオーナー二人は歴戦のフリーのベテランです。彼らはあらゆるフリーの音楽を聴いてきました。そういう体力がすごいです。パリペキンの先輩格にあたります。彼らもまさか自分がピアノを弾きはじめるとは思わなかったらしく、かなり久しぶりに京都のアバンギルドで再会した時も(自分は空間現代と中川裕貴バンドのフロントアクトで格ゲーの格闘音だけを使ったDJをしてた)、ピアノソロを物販していたのを見て、打ち込みのだと勘違いしていた。本当に生で弾いてて編集も無しで生録音そのままと言っても信じてもらえず。ただ音をきいたらわかってくれた。
非音楽家がピアノを弾くこと、についていろいろ思うことはあるけれど、実際にどういう音になるかは、当たり前だけどそれぞれの非音楽家次第。
ひとつだけはっきりしているのは、他の楽器にないピアノ自体の寛容さ。のような何か。これについては音楽家は教養と知識が邪魔して言葉にできないだろうから誰かがやってほしい。
ピアノという機械が西洋自体を代表しているとかいろんな議論がある。そういうのとはたぶん別のところにピアノの寛容さがある。そして電子ピアノにはその寛容さはまったくない。どうしてか。
非音楽家ゆえに好きなピアノ録音というのはいろいろあると思うのだけど、それについてはまたいつかここで。
コンロン・ナンカロウのドキュメントはおもしろいけれど、非ピアノのドキュメンタリーは観たことがない。
また映画もピアノの凶暴さと寛容さをまだまだ全然活かせていない。たまに熊のような男が西部劇でピアノをぶったたいてるとおもしろいけれど。映画監督ではガスがもっとも上記の同居に迫った気もする。しかし世界の映画をまだ全然観ていないからわからない。鉄腸さんなら豊かな答えを導きそうな気も。
非音楽家へのインタビューもこの世界にはほとんどない。ソンドハイムくらいか。
たとえばヒルデガルド・ヴェスターカンプみたいに、またはデヴィッド・ダンのようにピアノとつきあう方法もあるはず。
ここ一年でよく聴いたピアノソロはいろいろあるけれど、みっつだけあげるなら、ジェラルド・ガンディーニ、ミゲル・アンヘル・コリア、シェルシ。ガンディーニはピアゾラバンドのピアノ。しかしソロだと別の響きが開く。若手のクラシックピアニストのもよく聞くけれど、とてもおもしろい。そんな習慣はいままでなかった。もちろん非音楽家のサルの聴き方に過ぎない。25年前にラフネックピアノというプロジェクトをやってた時によく聞いてたピアノライブラリはロストしたけれど、フェルドマンやライリー含め少しずつ盤でなく聴き直してる。本当は非音楽家のピアノ録音を大量に浴びたいのだけど、その願いは叶わず。ピアノ演奏者やそうでないピアノエクスプローラーやピアノデュエリストなどさまざまなピアノベテランがいるけれど、もっと違うピアノ世界をまだまだ聴きたい。
非音楽家がピアノでできることは非常に少ない。ただそれは壊滅的なほど少なくはない。ということを残された時間の中で少しだけやりたい。それを聴く人は世界で五人くらいか。それ以上に、というか同時にピアノをもっと聴きたい。非ピアニストのを。または非ピアニストに真になれるピアニストのを。
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